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代表紹介
保持資格
学位 | オーストラリアビクトリア州立RMIT大学学士号 ・応用理学士(臨床科学)2000年 ・カイロプラクティック理学士 2002年 東京カレッジオブカイロプラクティック (CCEA:大洋州カイロプラクティク教育評議会認可校) ・ドクターオブカイロプラクティック 2022年 |
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所属団体 | WHO承認WFC 日本カイロプラクターズ協会(JAC)正会員 日本カイロプラクティック登録機構(JCR)登録カイロプラクター |
両親との別れをきっかけに、健康に関わる業界から離れる
私は喘息、アトピー、膝の病など体が弱い子供でした。
進路を決めるころに成長すると、ふと気が付けば私の周りの親戚は、公務員か医療関係が多く、また叔父のすすめもあり、カイロプラクティックの専門学校に通い、無事に卒業しました。
順風と思える日々を過ごしていた矢先、両親を相次いで病気で亡くしました。
人生で一番の暗黒期でした。
健康に直結するカイロプラクティックからは離れたくなり、しばらくは、医療系とは全く異なる業界、某急便で正社員として勤務しました。
今思えば、一人っ子である私は両親の相次ぐ死に精神的に疲れ、健康に関わる業界から逃れたかったのかもしれません。
転職をきっかけに患った「腰痛」、それを和らげたのが「カイロプラクティック」でした
毎日重い荷物を運ぶ仕事は、20代の私にも腰痛という慢性持病をもたらしました。
休みの日は、いろいろな種類の治療をしましたが頑固な腰痛はいっこうに回復しませんでした。
そんな中、友人のすすめでカイロプラクティックに通うと、すぐに効果がでて衝撃をうけたことを今でもそのときのことは鮮明に覚えています。
そのことがきっかけで再度カイロプラクターを目指すことにしました。
日本ではまだ未認可であるカイロプラクティックだったため、アメリカの大学にいくことを目指し、貯金をしていました。
アメリカの大学を出れば、カイロプラクティック医師となれるからでした。
そうした中、日本国内にオーストラリアのメルボルンにあるロイヤルメルボルン工科大学の日本校が設立されることを知り、どちらの道にいくか悩み、後者の道を選択しました。
過酷な実習や勉強を乗り越え、カイロプラクターに
某急便も退職し、26歳から5年間、大学で勉強に励みました。
在学中は、大学に併設されているクリニックで約300人の施術を行いました。
また、本校のメルボルン工科大学では数か月ほどかけて人体解剖実習を行い、ハードな勉強で何回も挫折しようと思いましたが、無事に卒業することができました。
卒業後は、妻と出会い、妻の故郷であるさいたま市に移り住み、2004年に「花の杜カイロプラクティック」を開院しました。
大病を患い再認識した、健康に悩みを抱える人を救いたいという思い
当初は、見知らぬさいたまの土地で受け入れてもらえるのか、カイロプラクティックが日本で受け入れてもらえるか、そもそもカイロプラクティックを知っている人は少ないのではないか、実費治療で来院するのか、と悩んだ時期もありましたがコツコツと日々、患者様の施術に誠実に向き合い、気づけば今年で20年目となっていました。
また、今から9年前、大病も経験しました。
幸いにも、早い段階での治療が出来たので後遺症もなく、完全復活できました。
3ヵ月間お休みいただいた中で、健康に悩みを抱える人を救いたいという初心の思いに戻ることができました。
また、辛い時期でも、明るく、楽しく、支えてくれた家族にも感謝しています。
これからも痛みを抱える方を一人でも救うことが出来るよう、日々努力していきます。